アメが好き。

といっても、6月頃に多くある、人の心を削ぐように空から零れ落ちてくる粒のことではない。 甘い、甘い、時々苦い、やっぱり甘い、袋に包まれた口に入れるお菓子のことである。

いつからアメが好きになったのか。 思い返すと、8年前の風邪をひいたときの記憶が頭をよぎる。 あのときの喉は、死んでいた。

おそらく、たまたま喉に甚大な被害を与えるウイルスだったんだろう。 何か食べようと思っても痛くて食べられなかったあのとき、ぼくを支えたのは ヴイックスメディケイテッドドロップとはちみつ100%のキャンデーだった。

扇雀飴 はちみつ100%

扇雀飴 はちみつ100%

特に、はちみつ100%のキャンデーは美味しかった。 100%だから当然なのかもしれないが、普通なら瞬きする時間すら持たずに 口の中から消え去るはちみつが、ずっと口の中にいてくれる。 それだけで生きているという実感が湧いてきた。

風邪が治ったあとも、はちみつ100%のキャンデーだけは肌身離さず持っていた。 大阪のおばちゃんには敵わないが、このキャンデーは人の心を掴むことができる。 友人に、隣人に、同じクラスの人にあげるだけでみんなが笑顔になれる。そんなアメ。 いつしか、生まれたときからずっと一緒にいたのであろうという錯覚を感じるほどに、この星型の甘い粒に傾倒していた。

それから6年ほど過ぎたとき、ぼくは黄金糖と出会った。

黄金糖 1kgピロ黄金糖 1000g

黄金糖 1kgピロ黄金糖 1000g

黄金糖の原材料を知っているだろうか。 ぼくの手元にある黄金糖の袋の裏側を見てみると、こう書いてある。 「原材料名 砂糖、水飴」 たったそれだけ。隠しようがないこのシンプルさ。 この単純明快な原材料の中に、人の欲望が詰まっている気がする。

もちろん、2年前まで黄金糖と出会わなかったわけではない。 おそらく、はちみつ100%のキャンデーに目も心も、そして舌も奪われていたのであろう。 ただ、食べ続けているといつかは飽きるものである。 ほどほどがよいとはよく言ったものだ。 6年間食べ続け、若干飽きかけていたぼくの舌に、黄金糖の素朴な味は突き刺さった。 黄金糖を食べた次の日、太陽が真上まで登っていた頃には、 黄金糖が100個入っているつかみ取りボックスのようなものを手に入れていた。

黄金糖と似ているものに、純露がある。

味覚糖 純露 120G×6袋

味覚糖 純露 120G×6袋

純露も美味しい。もちろん家に一袋常備してある。 しかし、仄かな紅茶の香りに、ぼくは恐れてしまったのかもしれない。 真っ直ぐな甘さを突き進む黄金糖に対し、紅茶の香りは心を惑わせてしまった。 惑ってしまった自分に対し、どちらのアメも優しく微笑みかけてくれた。 選んだのは、直線を征く黄金糖。 ただ、疲れを癒やす甘美さを願っていた。 それほどまでに、甘さを求めていた。

はちみつ100%、黄金糖ときて、ぼくは純粋な甘さを欲していることに気がついてしまった。 今年、甘さの極限、甘さの境地、甘さの金字塔。 それらを兼ね揃えるアメと相まみえた。 氷砂糖だ。

中日本氷糖 なつかしの氷砂糖 110g×12個

中日本氷糖 なつかしの氷砂糖 110g×12個

氷砂糖は甘い。なぜなら、砂糖だからだ。 氷砂糖は劣化しない。なぜなら、砂糖だからだ。 氷砂糖はエネルギーになる。なぜなら、砂糖だからだ。

氷砂糖に出会えてよかった。

今、ぼくははちみつ100%キャンデーと黄金糖と氷砂糖をちゃんぽんしている。 お酒とは違い、お腹に最後残るのはおそらく1種類なので、悪酔いすることもない。 実に良い。そして、美味しい。

甘さには人を誘惑する魔力が備わっていると思う。 小さい頃、サトウキビをかじったことがある人はいるだろうか。 あれは美味しい。 傍から見れば謎の細長い植物をかじっているようにしか見えなくとも、口の中には甘さが広がっている。 小さい頃、ツツジの花を後ろから吸ったことがある人はいるだろうか。 あれも美味しい。 道端に咲いている綺麗な花から、甘い蜜を吸うことができる。 見て楽しむだけでなく、味わって楽しむことができるなんて神様のいたずらに違いない。

甘さは麻薬。その言葉に異論を挟む気にも慣れない。 そんな甘さを直接感じられるアメが好き。

この文章は常体でお送りしました。