アニメーション映画『ジョゼと虎と魚たち』感想

※このエントリにはネタバレしかないのでそれを覚悟して読むか先に観てから読むことをおすすめします。

このランキングで軽く言及したネタバレありのエントリです。 sytkm.hatenablog.com

アニメーション映画『ジョゼと虎と魚たち』を観たのは奇しくも公開初日の2020年12月25日。 その前に『劇場版ポケットモンスター ココ』を観てその出来栄えに心動かされ、 クリスマスだからと奮発しておしゃれなスープパスタを食べたあと、 映画を観ることになった。

joseetora.jp


始まりは主人公である恒夫のダイビング。 大学で勉強して、ダイビングショップを含め様々なところで働いて、夜は貧相な食事。 おそらくお金を貯めているのだろう。 ところどころ欠けているところがありながらも、毎日が充実している感じがする。 夢を追いかけているみたいだ。

そんな中、いつもどおりバイトから帰る途中、コンビニでお弁当を買ったあと、 坂道の下に差し掛かったあたり。 もの凄い勢いで降りてくる車椅子。 そう、クミ子だ。 道も平坦ではなく、突起に車椅子がぶつかり、身体ごと投げ出される。 そんなクミ子を下敷きになるような形で助けたのが出会いである。

どうしてそんな状況になったのであろう。 聞けば、祖母との散歩中悪意ある人に車椅子を押されたと言う。 やはり、外は危険。 外には虎がいる。 祖母だけでは、クミ子を守れないから、外に出ない。

助けたタイミングでご飯をごちそうになり、 その過程でお金が足りないことを祖母が知り、 割りのいい仕事を紹介してもらう。 そう、割りのいい仕事とはクミ子の願いを叶える仕事、恒夫はクミ子=ジョゼの管理人となるのである。

もう想像がつくだろうか。 話の展開は単純だ。 ボーイミーツガール。 ふとしたきっかけから出会った二人。 最初はお互いを疎ましく思いながらも、いろいろな体験を一緒に重ねていくうちに、自然と惹かれ合っていく。

恋愛に困難がつきまとうのは当然のこと。 話の中では小さいものから大きいものまで困難が襲いかかってくる。 恒夫をめぐるライバル、些細なことからの喧嘩、すれ違い、祖母の死、そして、恒夫の怪我。 まるでジェットコースターのように、心が、状況が、上下する。

特に、おそらく設定されてあるであろう今回のテーマ、「夢を諦めない」に深く関わってくる恒夫の怪我は大きい。 努力を重ね続けて、やっと手が届く所まで来た夢がたった一度の事故でこんなにも簡単に遠く離れてしまう。 留学が取消しになるならまだしも、小さい頃からのメキシコの幻の魚と泳ぐという夢も絶たれそうになる。 必死に続けていたスペイン語の本を捨ててしまうほどにメンタルが崩れている恒夫。 胸糞悪い、最悪な状況だ。

そんな、どん底に位置する恒夫を救ったのは、恒夫のことをよく知っているバイト仲間であり、前に恒夫に人生を救ってもらった、ジョゼである。

バイト仲間の舞の功績は計り知れないものがある。 恒夫を怪我に追いやり、恒夫を夢を壊したとまで思って閉じこもるジョゼ。 そんなジョゼに、自分のためにならないと知りながら、自分ではどうにもできないからこそ恒夫のために、恒夫に今一番必要とされているジョゼに発破をかける。

ジョゼはその言葉で目覚める。 花菜に力を借りながら、最後に隼人に手伝ってもらい、舞台が出来上がる。 図書館の子供向けの読み聞かせという小さな舞台だけど、恒夫が来ることで最高のステージとなる。

そんな場所で話すのは、どこかで見たことあるような話。 そう、恒夫とジョゼの関係を暗示している話。 ここからは言うまでもないだろう。 夢を諦めない話なのだから。

あらためて、素晴らしい恋愛アニメーション映画だったと思う。 「恋愛」と「夢」。 この鬱蒼とした時代に希望が出てくる話。

もちろん、細かいところは気になった。 そもそも、悪意あって人が乗った車椅子を坂道に向かって押そうとする悪い輩なんて昔ならまだしもこの令和の時代にいるとは思えなかった。 ジョゼの夢に対して、恒夫の夢はあまりにも陳腐すぎるし、あんなに厳しいと言われた足の怪我が、無視できるくらい元気になるというのは些か現実味に欠ける。

さらに、冒頭の坂道から落ちてくるクミ子を救うところだけならいざ知らず、2回目の、骨折から回復したばかりの恒夫が同じように坂道から落ちてくるジョゼを救うのはやりすぎではなかったか。

それでも、話が丁寧に描かれており、欠点があるからだめだとは思わなかった。 恒夫とジョゼに振り回される2時間。 幸福な描写を楽しみ、絶望の瞬間に打ち震え、最後に安堵する。 最後に夢を叶えるためにそれぞれが走り続ける。 この映画を今年最後に観ることができてよかったなと思えた。


さて、映画を観た次の日、こんな記事が話題に挙がっていた。

bunshun.jp

この記事を見て最初は少し憤慨した。 自分が観て良かったと思った映画を、公開翌日にネタバレありでここまで批判しているのを見た、と考えれば当然だ。 自分の信じていたものが批判される、そうなってしまうと自分が批判されているように感じてしまう。 そうなってしまうと無理筋な言い分であっても強固に反論したくなる人もたくさんいるのではないだろうか。 なぜなら、昔自分がそうだったのだから。

よくよく記事を読むと、原作との比較や原作での骨となっている部分に対しての批判が大きい。 そこで、原作も読んでみた。

原作を読んでまず思ったことは、登場人物やおおまかな流れは一緒だけどアニメーション映画と随分雰囲気が違うなということ。 おそらく、テーマが違う。

原作では、「障害*1」と「性」が話の主軸に置かれている。

重要なピースとしての「障害」は、アニメーション映画でも使われていると感じた。 冒頭もそう、クミ子に障害があるからこそあのような出会いとなった。 クミ子、いや、ジョゼの行動は、すべて障害で縛られている。 でも、原作にあるような、障害があるからなにかができないという描写や、障害があるから苦労しているという描写はアニメーション映画ではあまり現れて来ない。 アニメーション映画では、心の中での縛りは描かれているものの、身体的・肉体的な縛りは電動車椅子や他ならぬ恒夫の献身で開放していると感じた。

これはあとから確認したところ、記事で言及されている監督インタビューでも言及されていた。

webnewtype.com

あらためて考えると、アニメーション映画でのこういった表現は、これが障害を重く捉えないようにするという意味を出しているように思えた。 今の時代では、「障害がある人は周りにもたくさんいる」と知られていると個人的には思っている。

しかしながら、障害を主に出してしまうと、おそらく今はまだテーマ自体もそちらに寄ってしまうことは確実だ。 障害がない人にとって、違うところを出てくると、そちらを意識してしまうこともあるだろう。 そのため、できるだけさり気ないかたちで表現したのが今回のアニメーション映画ではなかろうか。

ただ、ここで記事にあったリンクの下記記事が重要な意味を占めてくる。

www.nhk.or.jp

この『ジョゼと虎と魚たち』は芥川賞作家である田辺聖子が36年前に描いた青春恋愛小説の金字塔であり、 17年前に実写化され、そちらでは「障害」と「性」について今回のアニメーション映画のように隠すことなく描いた*2作品もある。

障害がある人からすると、既に障害について描いた作品があるのに、同じ表題で隠した作品をこのタイミングで出したことについては批判するのは当然だと思う。

記事でも言及があるが、監督インタビューでは

生い立ちによって出来てしまったジョゼの心の不自由さ。それを表現できるのであれば、ジョゼには足の障害ではない、別のなにかを課してもよかったわけです。

と言っている。 この態度は正直いただけないなと感じてしまった。

また、原作に生々しいほど現れている「性」はアニメーション映画では存在しないかのように隠されている。 「障害」はまだしも、「性」についてはアニメーション映画を観ていて、匂いすら感じられなかった。

そう、この「ジョゼと虎と魚たち」という作品は、もしかすると、ジョゼと虎と魚たちという作品を原作として使わなかったほうが良かったのではなかろうか。


ここまで書いておいて何だが、自分の最初の2020年に1番良かった映画という評価は覆さない。

これは最初観たときに感じた良かったと思う気持ちを消さないための自己防衛の鎧なのかもしれない。 氷で作られた、理想郷の形をしたただの模型を素晴らしいと言っているだけなのかも知れない。

それでも、原作を知らない視点で見たら、とても素晴らしい恋愛アニメーション映画だったと思う。 夢を諦めないというテーマをもとに、それに深く関わってくる恋愛模様ときらびやかな映像は、ぼくの心を掴んで離さなかった。

そうだ、2020年の忘れることのできない1ページとなったのだ。

*1:障碍の漢字を使うべきとの話もありますが、記事でも障害と記載されているため、本エントリでも障害とします。

*2:見たわけではないので間違っていたらすみません